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御講尊上人のお言葉当山第二十一世住職



御講尊 小山日誠上人



(本門佛立宗第二十四世講有)

本門佛立宗の信心とは

◇開導聖人御出生の大因縁

 佛立開導日扇聖人(長松清風)がお生まれになったのは京都の町中、いま「誕生寺」のある中京区新町通り蛸薬師西入(たこやしくにしいる)で、江戸末期の文化14(1817)年4月1日。
 そして明治23年(1890)7月17日に74歳でご遷化遊ばされましたから、江戸から明治への日本の大きな変革期にご活躍なされたお方と言えるでしょう。
 本門佛立講をご開講になったのは41歳の安政4年(1875)1月12日、世の中は新しい時代へと流れを変えつつありました。
 開導聖人のご開講は、世の中の変革に時を同じくして掲げられた「仏教改革」の旗だったのです。江戸幕府が布いた檀家制度により各宗の寺は惰眠(だみん)をむさぼり、法華の寺も同様に弘通を忘れ、互いの足を引っ張り合い、法論に明け暮れる日々を送っていました。
 お祖師さま日蓮聖人や門祖日隆大聖人の正しいみ教えは地に堕ち、世におもねり折伏もせず、檀家の機嫌とりに汲々とする宗門のあり方を見て、開導聖人は断固立ち上がり、本門佛立講を開講されたのです。
 開導聖人は法華経の「本門八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経」こそ広大無辺のみ仏の悟りである。この妙法の御本尊に向かい、口にこの御題目を唱えるならば、我々は凡夫ながら、み仏の悟りと一つになることができる。この人は家庭においても、社会においても、間違いなく立派な人として一生を送ることが出来るようになる。しかもこの御題目を我も唱え人にも唱えさせようと励むところ、仏様やお祖師様、先師聖人方の御心(みこころ)に叶って、「菩薩」としての輝かしい日々を過ごさせていただけるにだ、と教えられました。
 本門佛立講をご開講され、時代に叶った教えを一切衆生にお与えになるため、開導聖人はこの世にお出ましになられたのです。

◇本門佛立宗の教え

 開導聖人は私どもに.菩薩としての修行(菩薩行)を身をもって教えられました。
 「妙講一座」発願段には、
  願わくは生々世々菩薩の道を行じ、
   無辺の衆生を度して
とお示しになり、また御教歌には
  『いきかわり しにかわりつヽ法華経に
      仕へん人を 菩薩とぞいふ』
と私どもに菩薩としての心構えを教えてくださいました。
 だいたい菩薩という言葉はボディサットッバという梵語(ぼんご:古いインド語)を中国で菩提薩?(ぼだいさった)と音訳し、それを略して菩薩というようになったのが起源で、その意味は「大心衆生」大きな志を持った人々といわれます。
 大きな志とは、上に向かっては仏道を成就し、仏にならさせていただきたいと悟りを求め、下に向かっては世の人々を教化して救わせていただきたい(上求菩提:じょうぐぼだい、下化衆生:げけしゅじょう)との誓願です。
 本門佛立宗のご信心というのは一口でいえばこの菩薩としての心構えを教わり、それを実践させていただくことにあるのです。ですから当宗の信者は一人一人が菩薩であるという自覚を持つ。自分のご利益や成仏ばかりを願っていたのでは駄目です。むしろ自分の事はさておいても、世の中のすべての人を成仏の道へ誘い導こうという大きな誓願を立てることが肝心です。
 しかもこの誓願は、今こうして生きている間だけのことでなく、この娑婆世界に何遍も生まれ変わって来てご奉公させていただかなければ、次から次と生まれてくる数限りない人々(無辺の衆生)を救いきることはできませんから「生々世々(しょうじょうせせ)」にわたる壮大なお願いなのです。

◇菩薩としての自覚

 私ども佛立信者は、姿形は世間一般の人々と同じ様に三毒強盛(さんどくごうじょう)の凡夫の姿をしており、していることも世間の人たちと変わりありません。けれども実は私ども佛立信者はみ仏からご命令をいただき、寂光浄土からこの娑婆世界に派遣されている身の上なのです。世間の人と交わってお教化させていただく必要上、こういう凡夫の仮の姿をとっているのです。
 私どもはこの事をよくよく自覚しなければなりません。
「私はみ仏のお使いとしてこの世に生まれさせていただいた菩薩なのだ」
 この自覚がしっかりできると、毎日のご信心も生活も腰のすわったものとなって来ます。御題目を唱える時も、お参詣も、いろいろなご奉公も、いい加減なことでお茶を濁していたのでは申し訳ないという気持ちが起きてきます。ご奉公上に起こるさまざまな怨嫉(おんしつ)や苦労も物の数ではなくなるでしょう。
 こういう信心前になれたとき、私どもは本当のご信心の悦び(法悦:ほうえつ)を知って、すばらしい「菩薩の一生」を楽しむことができるようになるのです。


◇ご信心で悦びを

先ほどのお教歌には『法華経に使えん人』とお示しですが、仕えるという言葉は、目上の人のそばにいてその用をすること、例えば主君や親に仕えるときにこう言います。
 ましてやご奉公というのは、仏さまに仕えるのですから、自分の都合を捨て、欲を捨てて、へりくだった気持ちで尽くさせていただくのです。
 今まで自分の事ばかり考え、自分の都合を優先してきたのをなげうって、人さまのため、世の中のため、み仏にお仕えするというのですから、まさに人生の切り替えです。
 この「奉仕」の人生を歩むことによって、自分の欲望にがんじがらめにされていた心が放たれて、本当の自由を得ることができます。昔から日本で言われてきた 「ほとけ」という言葉は、この欲望の絆がほどけた人。「ほどけ」が「ほとけ」になったのです。
 小さな自分や家族の事だけをお願いしていた方も、もう一歩前進して、一日も早く菩薩としての自覚に達して、人を救わせていただくご奉公の中に本当の悦びを体得させていただけるよう、一層のご信心に磨きをかけましょう。

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